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井波の紹介

野原博史さんの井波物語

井波物語井波でお寿司屋さんを営まれる野原博史さんが、
井波の歴史を紹介する「井波物語」です。

文:野原博史さん(美好寿司
挿絵・イラスト:藤井治紀さん(砺波市)
デザイン・編集:薮道子さん(砺波市)

【その一】瑞泉寺山門・太子伝の由来

瑞泉寺山門太子伝の由来
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瑞泉寺山門

禅宗寺院に見られる巨大な「三解脱門」を略して三門と呼ばれています。
空・無相・無限の三つの教えに基づいて解脱をするという意味です。

禅宗の本山級の寺院にあるのがほとんどですが、例外として浄土宗の知恩院の三門や浄土真宗の本山の寺、城端の善徳寺があります。また井波の瑞泉寺の三門は浄土真宗の中で一番古い山門です。

この三門様式の最大の特徴は柱を丸く削って粽(ちまき)を付け、その下に礎盤を敷くところで、禅宗様の特色です。山廓の花頭窓も禅宗様の最大のポイントです。何故禅寺でもないのにと疑問に思われますが、構造的や経済的な理由から禅宗様と和様のよいところを採ったのでしょう。

    瑞泉寺山門のDATA  1785年(天明5年)224年前起工
  • 棟梁…柴田清右工門
  • 彫刻…唐戸上龍波彫:前川三四郎(京都)
  • 四枚仙人:岩倉理八
  • その他:北村伊三郎 北村七蔵 茶屋甚作 茶屋三次郎 番匠屋佐助 番匠屋清兵衛
  • 本瓦葺………2万枚 ※新井瓦店調べ

  • 礎盤の産地…利賀長崎村の長崎みかけ石(今では産出しない)
  • 床面…………井波石(杉谷山)緑色凝灰岩(ぎょうかいせき)(グリーンタフ)
    ※滝田石材店調べ

【太子伝の由来】

瑞泉寺の開基綽如上人は、井波の山奥杉谷に庵を結んで仏法を結んで仏法をひろめて居られた。時恰も支那より外交文書が送られて来た。教育の発達していない足利時代に於ては難かしい外交文書は京都の周囲を取まく五山の坊主 (天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺) が読むことになっていた。処が締如上人の五山の坊主共は権勢争いに浮身をやつし学問の方が留守になって支那から来た外交文書を読む者がいない。そこで仕方なく従来の慣例を破って本願寺五代の綽如に読ませてみようということになって、上人を京都へ呼びよせ支那から来た文書を読ませた処いとも鮮かに読み終はせたので、流石の足利義満も大いに悦び、褒美の望みは何なりともということで綽如は井波の地に一宇を建立したいと申出ると、義満はそれ位の事ならいと易いというので、北陸の諸大名に号令して大伽藍を寄進させようとしたが、綽如はそんな大権力の威力によって作った道場はほしくない、自分の望んでいるのは一門不知の大衆から一厘二厘の喜捨を乞い一寸尺木の寄附をつのって立てたいから近郊在所を勧進する許可を 願いたいというので、義満将軍から堂宇建立勧進の許可をもらって立てられたのが瑞泉寺の濫觴である。綽如上人が義満将軍のもとめに応じて支那の外交文書を読み又それに対する返事を書いた事に対し、時の帝である天皇は上人の博学に御感心なさって、引続き宮中で、我が国仏法弘道の最初の功労者である聖徳太子の伝記を講ぜさせられた。その時元宮中に蔵せられた太子御自影の二蔵の尊像並に宇多天皇の御宸瀚付の巨勢金岡の書いた太子絵伝八幅を、兵火に罹ることを恐れて加茂神社の宝蔵へ移しであったのを召寄せられて御講義に用いられた。御講義終了の後御褒美として上人に勅許によって御寄諾になり、毎年土用虫干に太子の御尊像を開扉し、御絵伝と共に拝礼を許されたのである。

瑞泉寺は戦国時代、文明天正年間 (一四八一〜一五八〇頃) 度々兵火を交い、天正九年六月佐々成政の兵乱に没落し、七代顕秀公は五ヶ山に逃げ、八代准秀は五ヶ山から北野村に出て慶長年間再び井波に復帰して現在の地に再建し土用虫干などの年中行事をも復活した。

十二代の応現院は非常に弁舌の勝れた方で、今まで土用の虫干に太子絵伝を飾り太子の尊像を開して拝礼させていたのを、絵伝の解釈を付け加えて毎年六月二十二日より二十八日迄を太子伝会と称することになった。宝暦六年と天明四年に太子虫干が延びて八月二十二〜二十八日ということもあったが、旧暦が新太陽暦に切替えられて七月ということになった。明和安永の頃から山門の外及び石垣の下から八日町中に仮小屋を建て、諸国から商人が集って店を開き繁昌を極めた。八日町は現在上の方に簾天井を張り日覆して此の下で店を出しているが、当時は今の反対に下町に日覆をしていたものである。

天保の頃井波紬や小川絹を井波へもって来た僧、観寿 (井波の人水戸の国阿彌陀寺の住職) が太子伝を俚謡に作って紬や小川を織る女達に唄はせた。
「詣らんセ詣らんせ。井波の瑞泉寺ジエ。
昔から伝はりぬ
太子の絵伝のござりますござります。毎年六月諸国商人入込み店々繁昌するり。大門お釈迦を拝んでから芝居や軽業あだ。チョポイチ繁昌する繁昌する。」

                図書館長 野村藤作

参考資料‥井波町報七月号 昭和二十九年六月十五日発刊「太子伝の由来」

太子厨子御仮堂→会館に置かれている明治6年
  • 棟梁……河合恒七
  • 副棟梁…東城清八
  • 彫刻……番匠屋
  • 塗師……桧物屋
太子堂起工式差定 明治44年11月17日
  • 行司……辻善七之介
  • ※資料:松岡茂(宮大工)記録古文書より
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